昨日、2017年9月23日放送のNHKBSプレミアム「医師の闘病から読み解く がんを生きる新常識」レポを書きました。
今日は、番組の後半です。
がんになった人は、子どもに、会社にどう伝えたのか、どんな問題にぶつかり、どう乗り越えてきたか。
司会は坂上忍さん、高橋真麻さん。
ゲストは柳生博さん、宮崎美子さん、レッド吉田さん、竹原慎二さん、吉木りささん。
目次 [閉]
がんを隠さない
いまは、医者も患者にがんを隠さないし、患者もがんを隠さない時代になっている。
自分が重いがんであると診断されたとき、家族にいつどんな言葉で伝えればよいのか。
東京新宿メディカルセンター呼吸器内科医清水秀文さん(42)は、がんになったとき、家族に詳しく伝えた。
がんが見つかったのは6年前。
同じく医師で妻の智子さんは、当時三男の斗真くんを妊娠していた。
半年前に受けた定期健診では異常がなかっただけに、驚いた。
2011年12月。
検診結果を見た清水さんは、すぐに妻の智子さんを病院に呼び出し、レントゲン画像とCTを見せた。
患者数の少ない縦郭腫瘍。
がんを冷静に受け止めた清水さんは、智子さんにがんの特徴から治療法まで包み隠さず説明した。
家族のためにも絶対にがんに勝つ。
清水さんは、抗がん剤治療と手術を受けるために入院。
このとき長男は7歳、次男は2歳だった。
子どもたちにいつどう伝えたのか。
智子さん
「髪が抜ける前に話そうと思って、”がん”とはっきり言った。死んでしまうこともあるけど、お薬がよく効けばやっつけられる病気だと。
家族以外の人から『がんなの?』『大丈夫?』と違う形で耳に入ってしまって『そんなに悪い病気なのかな』と子どもが怖がってしまう状況は避けたかったので、まずは自分の言葉で言いたいと思った」
当時7歳だった長男。
父親のがんを告げられたことについていまどう感じているのか。
「父が入院して大変になっていると思った。母が父の状態について正しいことを伝えてくれたことはうれしかった」
なぜうれしいと思った?
「何も知らないまま父が死んでしまったときに、正しいことを知らなかったことを後悔する。正しいことを知っていたほうが(最悪の)状況を受け止めやすい。正しく理解できる」
4ヵ月におよんだ抗がん剤治療が効果を発揮し、手術は成功。
その翌月、三男の斗真君が生まれた。
智子さん
「隠すこと自体が負担。一つ隠すとまた何か起きたときにまた隠さないといけない。そのことがストレスになる」
仕事を続ける
まだまだ我々の意識や制度、会社の対応は、がんになっても働きづづけられる環境にはなっていないという現実がある。
キャンサーペアレンツ代表西口洋平さん(37)は、人材紹介サービスの会社に勤めている。
2年前からがんを患い、現在、外来化学療法を受けながら週2~3日、働いている。
西口さん
「治療した日や次の日はしんどいので、その日は仕事に来ない。そうじゃない日を選んで来ている」
西村さんは、肝臓と十二指腸をつなぐ胆管のがんのステージⅣ。
リンパ節や腹膜への転移がひどく、手術ですべてのがんを取り除くことはできなかった。
5年生存率は2.9%。医師からは、いつ何が起きてもおかしくないと宣告された。
入社以来、10年以上にわたって営業の第一線で走り続けてきた西口さん。
深刻ながんの宣告を受けても働くことを選択した。
西村さんは週に1度通院して、抗がん剤の投与を受ける。
月々の治療費は、およそ30,000円。
子どもの教育費や住宅ローンをかかえる西口さんにとっては大きな負担。
金銭面での不安をかかえながらも、家族と過ごす時間や、自分のやりたいことをする時間を増やすために、勤務時間を大幅に減らした。
仕事を続けるためにまず相談したのは、社長の鈴木さん。
西口さん
「仕事量は減らしたい。でも会社のために役に立ちたい」
入社以来、西口さんの実績を高く評価していた鈴木さんは、そのキャリアを活かせる部署を探した。
いま西口さんは、正社員からパートタイムに切り替え、人事部門で採用の業務を担っている。
西口さん
「会社が改めていいなと思ったのは、そこに仲間がいること。僕が会社にできることは、僕のような人たちが働きやすい会社をつくること。
今までどおり働けなくなった人たちでも、働ける環境をどうつくれるか(を考えること)。それが(会社への)恩返し」
社員の平均年齢はおよそ30歳。
西口さんのキャリアや経験は、若い社員たちに影響を与えている。
がんになったら家計はどうなる?
がん患者専門の看護師ファイナンシャルプランナー黒田ちはるさん(35)。
「大切なことは、生活破綻を起こさずに、治療生活を過ごせること」
自営業Rさん。51歳男性、妻、子ども5人。
男性は50代からがんを患う人が増える。
住宅費をかかえていたり、教育費がピークになる人もいて、お金がかかる年代。
がんになって毎月支出が増えるのは、合わせて115,000円。
収入は激減するため、家計は毎月赤字になってしまう。
ここで大変なのは、奥さんががんになった場合。
30~50代は女性のほうが罹患率が高い。
専業主婦となると、家事や子育てのマンパワーがないと(それを補うために)お金がかかる。
表面的には、ご主人の収入があるから大丈夫だと思われがちだが、潜在的に家計破綻を起こしているケースが多い。
自営業と会社員では自己負担額が違う。
会社員は、会社の健康保険組合で付加給付があると、月々の医療費が2~3万円で済む場合がある。
また、健康保険組合に傷病手当金があるので、半年で90万円入ってくる。
自営業はその仕組みがないので、半年間で153万円の差が出る。
ぜひ相談したいという場合は、黒田さんのような個人のFPや、病院からNPO団体に相談できる。
がんはみんなで闘う
高知市内。
国吉病院麻酔科医田所園子さん(48)は、7年前、子宮頸がんを患った。
進行していたため、子宮や卵巣など周囲の組織も一緒に取り除く手術をせざるを得なかった。
最も心配したのが、手術の後遺症。
2011年11月。
手術後、どんな生活を強いられることになるのか、医師に訪ねた。
医師
「やってみないことにはわかりません」
田所さん
「(医者にとって患者は)他人事だなと思った。簡単に言ってしまうけど、患者さんは怖い」
行き場のない不安は、ときに夫に向かった。
夫で医師の剛久さん
「代わることはできないし、何も答えることはできず、ただ黙って聞いているだけだった」
誰もわかってくれない。
孤独感にさいなまれていた田所さんを救ったのは、インターネットだった。
そこには、治療や症状について、患者自身がつづったリアルな体験談が数多くあった。
また、同じ子宮頸がんの患者のブログを読みながら、不安を抱えているのは自分だけではないと安心する。
さらに、患者たちが主催するSNSに、治療についてさまざまな疑問を投げかけた。
多くの答えが寄せられるなか、尿もれなどの対処法や実際の生活への影響について少しずつ理解を深め、納得していった。
手術の日が近づいたある日。
SNSで知り合った末期がんの女性から、励ましのメールが届いた。
がん発覚の2か月後、手術を受けた。
それから7年。
いまは4ヵ月ごとに検診を受けて、経過観察を続けている。
田所さんはいま、がんの緩和医療にも取り組んでいる。
末期がんの患者ばかりでなく、闘病中の患者すべてと向き合うことが大切と考えている。
肉体的な苦痛や心の不安を少しでも早い段階で取り除くことで、患者は前向きに生活できる。
それが、がんを治す力になると身をもって体験したからだ。
患者同士で支え合う
がん患者同士の交流をすすめる動きが全国で広まっている。
「のぞみの会」
広島県尾道市で行われた乳がん患者の交流会。
会場では、ウィッグや帽子など、抗がん剤治療を受けている女性にとって、生活に欠かせないものも販売。
この会を主催した、浜中皮ふ科クリニック院長浜中和子さん(67)。
40代のときに乳がんを発症したのをきっかけに、24年前に患者会を始めた。
乳がんは日本女性の12人に1人がなると言われ、リンパ節などへの転移や再発リスクが高いがん。
1993年3月。
胸のしこりが気になり、同僚の医師に検査を依頼。
受け持った手術の直前に、乳がんだと告知された。
手術で乳房を取らざるを得ないのか、働けなくなるのか、次々と押し寄せる不安。
そんなとき、同僚の看護師桜井さんから「実はわたしも2年前に乳がんの手術をした」と声をかけられた。
桜井さん
「私の傷を見せてあげたり、こういうふうにしたなどを話した。実際(がんを)やった者のがんばりを聞くと、『あぁこういうふうにやればいい』と分かる」
浜中さん
「がんを体験した人の言葉は、がんだと言われた人に一番届く。がんを体験していない人が、がんで苦しんでいる人に『がんばって』『大丈夫よ』というのは、何の根拠があってそれが言えるのという感じになる。
でも、がん経験者が乗り越えた姿を見せて、その体験を話せば、あなたができたのなら、わたしにだってできるんじゃないかと思える」
浜中さんの手術は成功。
転移もなく職場復帰したころ。
桜井さんから自分たちの経験を共有する患者会を作れないかと相談を持ち掛けられた。
2人は同じ病院の乳がん患者さんたちに声をかけ、「のぞみの会」を立ち上げた。
同じがんを経験した者同士、それまでなかなか人に話せなかった思いや悩みを打ち明け合った。
現在、会員数はおよそ450人。
広島を拠点に、患者やその家族も一緒に活動の場を広げている。
浜中さんは、定期的に患者が経験を語り合う会を開いている。
毎回50人を超える仲間たちが集まる。
さまざまな体験を分かち合うことが、心とカラダを癒す力になっている。
「キャンサーペアレンツ」
がんを抱えながら働き続ける西口さん。
去年、子どもを持つがん患者の会「キャンサーペアレンツ」を立ち上げた。
会員のSNSサイトには、家族、仕事、治療に関する本音が寄せられている。
立ち上げからわずか1年。
メンバーの数は1,200人を超えた。
たびたび開かれる交流会では、同じ世代、境遇だからこそ相談できる悩みを直接語り合い、共有している。
西口さん
「最初は僕自身が情報が全くなかったので、あったほうがいいと思って作った。これだけの人が集まるということは、いま手を挙げられない環境だということ。
働く世代だからこそ、患者の声を届ける責任がある。社会を変えることが実現できれば、子どもの世代にその社会を残せる。がんを経験したからこそ、ワクワクできることがある」
ピアサポーター
ピアサポーターとは、同じ悩みを抱える患者を、仲間の立場で支援する人のこと。
都立駒込病院。
ピアサポーターの活動の場は、病院の中に設けられている。
さらに、患者の相談を受ける人たちもがん経験者。
患者が治療を受ける病院で、同時に心のケアも行うのがピアサポーター。
浜中さん
「現在、ピアサポーター養成講座をやっている」
坂下さん
「自分自身が”ピアサポーターを受けることで非常に支えになって勇気をもらえて生きる希望が湧いた、だから、自分も誰かの力になりたい”という人が養成講座に来ている」
死から目を背けない
自らも二度のがんを乗り越え、日本のがん対策の中心的な役割を担ってきた、日本対がん協会会長垣添忠生さん(76)。
2007年。
国立がん研究センターの名誉総長に就任した矢先、妻の昭子さん(享年78)が亡くなった。
昭子さんのがんは進行がはやく、再発、転移を繰り返し、発見から1年で亡くなった。
余命宣告を受け、日々病魔におかされていく昭子さんは、同じ言葉を繰り返し口にするようになった。
「家に帰りたい」
この言葉に、垣添さんは自宅で看取る決意をする。
しかし、医療の知識と経験が豊かな垣添さんにとっても大きな決断だった。
垣添さんが当時つけていた看護記録。
2007年12月28日。
昭子さんを自宅に向かい入れた晩、垣添さんは鍋料理を作った。
しきりに喜ぶ昭子さんを見て、垣添さんはかけがえのない幸せを感じた。
しかし、3日後、昭子さんの体調は急変。息を引きとった。
妻の最期と向き合った垣添さん。深い悲しみを乗り越えるために新しいことに挑戦しようと決意。
今では居合い、さらに、登山やお遍路など、新たに始めた挑戦が生きがいになっている。
妻の死から10年。
垣添さんは死から目を背けず生きている。
垣添さん
「予防と検診、適度な運動、食事に気をつけることによって、4割のがんは遠ざけられる。
それでもがんになる。どうしても治せない場合は、緩和ケアをきちんと提供する」
ちゃママ感想
ちゃママも、7年前に親戚のおじさん(当時44歳)を肺がんで亡くしました。
2月の健康診断では異常がなかったのに、9月に見つかって、翌年の1月に。
進行の早いがんは本当に怖いです。
がんは遠ざけられる病気。
がんになった本人も、家族も、本当につらい思いをする病気です。
早期発見のためにも、自分はもちろん、家族や周囲の人も”検診を受けるのが当たり前”にならないといけませんね。
そして、がんになってもならなくても、情報を知っておくことは大事だと思いました。
長いレポを読んでくださってありがとうございました。



